偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

巨星ついに逝く 橋本清春先輩の訃報

 塚本前支部長より以下の報告がありました。

 

 去る2018年1月15日、橋本清春氏が逝去されたことを

 会社同僚の野路氏(橋本氏のお嬢さんの旦那)より、今朝ほど報告をうけました、

 本人の希望で家族のみの葬儀を執り行ったことについて、

 皆様によろしくお伝えくださいとのことでした。

 

 江工会関東支部、役員、会員、一同、心から故人のご冥福をお祈り申し上げます。

 

橋本清春氏の追加参考資料

今回は、追加または番外編として、橋本清春氏が執筆された論文、設計関連資料などをPDF形式で掲載します。

 

特に「建築」関係者は、参考にしていただければ、ご本にも喜ばれると思います。

六本木再開発事業概要.pdf
PDFファイル 4.6 MB
HP-R工法の分譲マンション施行実績.pdf
PDFファイル 4.6 MB
HP-R工法紹介パンフレット1の3.pdf
PDFファイル 7.6 MB
HP-R工法紹介パンフレット2の3.pdf
PDFファイル 4.9 MB
HP-R工法紹介パンフレット3の3.pdf
PDFファイル 3.2 MB

第9回 戦争体験者の思い、次世代に伝えたいこと

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

第9回 戦争体験者の思い、次世代に伝えたいこと


以下の文章は、橋本先輩が自らの体験を基に、ご意見を
述べられています。

様々なご意見やご批判があると思いますが、まずは、一度、
お読みください。


2005年 平成17年5月14日に詠んだ詩。

「八平十路まで 生き抜きたるは 若き日の 苛酷に耐えし 
シベリア憶う」

 

以下の橋本先輩の熱い思いは、
平成19年11月10日(2007年、83歳)に行なわれた
「嶺文いきいきクラブ11月例会」 
という会合でのスピーチ原稿です。

 

それを、本ブログ用に編集しました。

 


支那事変従軍体験から憲法9条改憲問題までの経過


はじめに、私がいわゆる十五年戦争(じゅうごねんせんそう)※の
只中の世代に生き、幾多の知人の死を伝えながらも、
私自身は厳しい戦争体験を持つことはなかったことである。

 

※「十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年(昭和6年)の
満州事変から1945年( 昭和20年)ポツダム宣言受諾による
太平洋戦争(太平洋以外の地域も含む、大東亜 戦争)の終結に
至るまでの約15年間弱にわたる紛争状態と戦争を、
総称した呼称である 。」

 

 

私(橋本)は、1924年(大正13年)島根県生まれ、
県立工業学校建築科卒、東京の建設会社に入社、
すぐ技術徴用を受け支那派遣軍に勤務、
実際に戦闘に従事したことはなかった。

 

終戦後はソ連に捕虜となり、極限状態の苦労をなめたが、
3年後に内地に帰還した。
終戦直後の混乱に内地の人々が味わった苦労は知らずに
過ごしたのである。


その間に新憲法が制定された。

 

平和憲法としてその前文と第9条を中心にして、平和主義の理念を
宣言している。


しかし朝鮮戦争勃発とともに警察予備隊が成立し、それが
自衛隊へと発展するに至り9条の空洞化が生じてきた。

 

自衛隊は、憲法9条の2項で禁止されている「陸海空その他の戦力」
に当り、憲法上許容されないという学会の通説に対抗し、
政府、政治支配層は別の解釈論を立てて、
自衛隊は合憲であるとしている。

 

これは個人の正当防衛と同様に、いかなる国にも法的に認められ、
憲法もまた禁止していないというものである。

 

そして、自衛権があるならば、自衛隊は憲法上の「戦力」には当らない、という解釈論である。

 

自衛隊は憲法上の疑義に絶えずさらされながら、現実の強力な
政治力に支えられて存続し、次第にその力は増強されてきている。

更に国民投票法を成立し改憲をすすめようとしている。

 

しかし、外国と軍事同盟を結んで、共同して相互に国を防衛し
合うという、「集団的自衛権」の考えと現憲法は全く両立し得ない
ものと考える。

 

最近、テロ対策特別法による、インド洋海自給油活動、
イラク空自輸送活動等々が問題にされて決着がつかない。

 

ここで戦中戦後を生き抜いた我が仲間、「嶺文いきいきクラブ」
(江工会会員、編者加筆)の皆さんに、
私の体験談をお話して、憲法9条と現在の流れについて、
ご意見ご感想を元に、討論をして終わらせたいと思う。

 


1) 戦争体験をした国民の憲法9条とは

 

参考:
第9条は
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


アメリカが旧敵国である日本を徹底的に非軍事化し、
弱体化させるという意図を含むものであり、また当時の
日本国民の深い厭戦感(えんせんかん)に支えられていた
ものである。

 

1950年朝鮮戦争勃発とともに警察予備隊が成立し、
保安隊へ、それが1954年自衛隊へと発展するに至り、
9条の空洞化が生じてきた。

 

しかし戦争体験をした我々は、9条は世界の憲法史上画期的な
素晴らしいものだと思っている。

 

 

2) 憲法改憲への政府、政治家の動きは、また国民は?

あの戦争は一体、なんであったのか?

 

日米安保条約で思うこと


軍事同盟 
これが 米軍への「思いやり予算」だ

国民投票法の強行採決
(平成26年6月20日に公布・施行)
防衛庁が防衛省に
(2007年「平成19年」1月9日に防衛省へ移行)


海上給油継続新法案
新テロ対策特別法
米軍再編交付金
今こそ怒れ、憲法9条の改憲!


以上、橋本先輩は、現在の「戦争はやむをえない」の気運を
非常に危惧されています。


以上、キーワードと記述を織り交ぜた「橋本清春先輩」の回想録です。

9回にわたりお伝えしてきましたが、今回が最後です。

どうぞ、偉大な先輩の軌跡を堪能してください。

 

終わり。

偉大なる先輩その9(9回).pdf
PDFファイル 229.9 KB

第8回 江工会関東支部の設立に関して

 

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

 

 

8回 江工会関東支部の設立に関して

 

 

 


橋本先輩と江工会関東支部との関係:

 

 

 

橋本先輩の記述から直接引用します。

 

 

 

 

 

卒業後、仕事の縁で知り合った同窓生数人で集まるようになり、

 

「霞ヶ関ビル」の見学会として20名ぐらいの集まりを持ったことにより、現在の江工会関東支部へと繋がった

 

 

 

現在、江工会関東支部の最年長会員である。

 

 

 

 

 

以上ですが、江工会関東支部の「由来」に関しては、

 

別途「江工会関東支部のホームページ」をご覧ください。

 

 

 

http://gokokai-kanto.jimdo.com/関東支部総会/関東支部の由来/

 

 

 

ホームページのコピー(一部)です。

 

 

 

 江工会関東支部は、記録としては昭和54年11月23日、
「関東地方支部会」として総会が、小石川後楽園「かん徳亭」で

 

開催された。

 

会長山本俊彦(木工16)、副会長:安田光勝(建築26)、
顧問:橋本清春(建築16)、事務局幹事:島田和司(建築22)、
原田光政(建築32)の構成であった。

 

しかし、総会はこの時期に前後して数回開かれてから自然消滅の
形となった。

 

 

 

 

 

 開校60周年を翌年に控えた平成5年10月、

 

「昭和32年卒の同期会」、

 

原田光政(建築32)、笠井二三夫(化学32)、

 

が中核となり支部活動の準備を開始した。

 

 

 

平成6年1月13日、熱海において

 

「新年会とゴルフコンペ」を計画したところ、

 

関東地区在住の江工会の有志(40代から60代)が

 

20名参加し、盛大な懇親会を持つことが出来た。

 

 

 

 

 

 平成6年現在、関東地区在住の江工会の会員数は、
全国会員数の一割に当たる1,000名近い、建築卒272名、
木工卒59名、機械卒315名、化学卒148名、電気卒206
の内訳となる。

 


年齢構成では40代から50代の社会人ベテラン層が6割以上を
占めていた。

 

そこで、新たなる幹事の選出は32年卒を先頭に、

 

2-3年の年齢差を設けると共に、卒業学科を横断する構成とし、
各幹事の会員への働きかけが横広がりとなり、
会員全体に投網を掛けられるよう総勢14名とした。

 

 

 

幹事候補全員の快い承諾を得、

 

平成634日幹事会の初会合を開いた。

 

 

 

 

 

以下省略。

 

 

 

 

 

今回は以上です。

 

 

 

つづき。

 

偉大なる先輩その8(9回).pdf
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第7回 アークヒルズ建設、特集

 

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

 

 

7回 アークヒルズ建設、特集

 

 

 

 

 

以下は、橋本先輩が霞ヶ関ビル建設工事以降に様々な工事に

 

従事されました。

 

 

 

その中で、特筆すべき工事は、

 

1983年 「赤坂・六本木再開発工事(アークヒルズ)」です。

 

橋本先輩は、当時民間最大の再開発工事を

 

「総合施行調整室」として指揮されました。

 

 

 

以下の図は、「赤坂・六本木再開発工事」の「管理体制」です。

 

以下は、事務所棟の建設工事です。

 

以下は、ホテル棟の建設工事です。

 

 

今回は、以上です。

 

非常に大規模な工事だったのですね。

 

つづき。

 

偉大なる先輩その7(9回).pdf
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第6回 霞ヶ関ビルとアークヒルズ建設から退職まで

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

6回 霞ヶ関ビルとアークヒルズ建設から退職まで

 

 

橋本先輩が、日本の建築史上に残る日本最初の超高層ビル

「霞ヶ関ビル」工事に参画されるきっかけのエピソードです。


霞が関ビル
霞が関ビル

私の場合は、

以前の現場(当時約30億円)で

竣工間近のとき、

本店担当工事部長兼霞ヶ関ビル所長が、

巡視された際に、

 

「居た、居た。

誰かを捜していたら、君が居た。

明日から霞ヶ関ビルに顔を出せ。

 

君には超高層ビルの鉄骨を担当してもらう。」

 

 

 

 

 

東電の火力発電所の鉄骨工事の実績を聞いておられたのでしょう。


遅ればせながら、とは言っても、既に地下3階まで

掘削していたのであった。


途中割り込むような形で超高層の御縁となった。

 

 

以下は、橋本先輩が従事された「霞ヶ関超高層ビル」

以降の工事一覧とご退職までの略歴です。

 

その中で、特筆すべき工事は、

1983年 「赤坂・六本木再開発工事(アークヒルズ)」、

橋本先輩は、当時民間最大の再開発工事を

「総合施行調整室」として指揮されました。

 

詳細は、「第7回 アークヒルズ建設、特集」をお読みください。

 

1966年 三井不動産「霞ヶ関超高層ビル」工事
              
日本最初の超高層ビル、発想法の起源となる。              

         多数の新工法を使用

1969年 東京電力本社ビル、新橋変電所、鉄筋工事
         
設計施工大工事、新工法駆使

1973年 安田火災事務本部工事

50億円 1年間の大突貫工事

1974年 日本自動車足立トラックターミナル工事

              当時東京最大の荷扱い所

1976年 三井不動産板橋サンシティ工事

              1986戸のマンション群

1977年 三井不動産落合パークファミリア工事

              256戸のマンション群

 

1977年 日本パイロットハウス北新宿マンション工事

近隣対策の成果

 

1977年 国際学友会館工事

同上(近隣対策の成果)、隣接工事

 

1979年 三井不動産金町パークファミリア工事

              特命 設計施工

 

1979年 第一ホテル・エンタープライズ北品川ホームズ工事

              特命 設計施工提案型

 

1979年 岩田工芸ガラス工場工事 

              特命 設計施工

 

1980年 パイロットハウス菊川・美世志ビル工事 

              特命 設計施工 


1981
年 三鱗印刷本社ビル工事 

              特命 設計施工 

 

1981年 ライオンズプラザ恵比寿工事 

              特命 設計施工 

 

1982年 日本自動車ターミナル葛西荷扱所工事

              特命 足立荷扱所実績より

 

1983年 建築本部工務監督

              国技館、原子力発電所、他

1983年 赤坂・六本木再開発工事(アークヒルズ)

           当時民間最大の再開発工事 総合施行調整室長

1986
年 鹿島建設㈱退職(満62歳)

 

1986年 鹿島建設㈱退職後、鹿島道路㈱に入社

 

 

1. 道路会社に建築工事部を作る    
建築士2名でスタート

2. 全支店幹部の意識改革と、建築部、課を作る
       土木社員の教育と建築社員採用拡大を図る

 3. 一級建築士設計事務所開設
      三井造船ドック屋上ほか

4. 発想法を駆使して、建築営業から施行まで、ゼロからスタート。

       10年目には年間受注200億円まで達成した。

1997年、平成9年に退職(満73歳)

 

 

今回は以上です。

大規模工事を連続して手掛けられたのですね。

つづき。

 

第5回  帰国してから国鉄労働会館工事まで

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

5回 帰国してから国鉄労働会館工事まで

 

 

今回も、橋本先輩の資料を直接引用します。

 

 

帰国とその後の業績

 

待ちに待った帰国

3年間の過酷にたえ、ナホトカ港から舞鶴へ
舞鶴で帰国証明と支給品
父母兄弟と再会

上京し再就職


左翼扱いされて
抑留体験で得たものは
数々の難工事に従事して、でも過酷にたえた心身には

自信があった。

 

無からの発想法
新工法や、特許を生み出す

 

以上は、帰国とその後の話の引用です。

長い建築屋としてのキャリヤーの中で、橋本先輩も「失敗談」があります。

以下の記述は、非常に参考になります。

 

 

大事故を経験

 

1953年 国鉄労働会館工事の地下工事での大事故、弱鉄骨

江戸城の外堀を埋め立てたところに、地下3階地上9階の

ビルを建てる計画で、地下工事を始めた。

始めに外周にシートパイル(鋼矢板)を打ち込み、

根伐りを始めた。

 

掘り込むに従って切り梁(水平支保工)を取り付けて、

シートパイルが中に倒れないように支えるのだが、

地下3階まで掘ったとき、4段のうち、最上部の一本に腐食材があり、

これが破損して、次々に外れてバランスが崩れて、

丁度、菓子箱を踏み潰したようになった。

 

時間がたつに従って、堀の泥水が流れ込んだ大災害だった。

 

金額、工期遅れ他で計算できるものではなかった。

 

以後、仮設施行、掘削は建築工事でありながら、

土木工事部に頼むよう会社の指示が出たのである。

 

再度、土木部で地下3階まで堀り、捨てコンクリートを

打つまでの間、建築屋は口出しの出来ない悔しさを味わった。

 

この事故以来、私は地下工事のあるビル工事は、慎重さは勿論、

材料、工法とも

 

「発想法(これは私の言葉だが)として、工法はどうあるべきか?」

「材料資材は別にあるのではないか?強度計算は?」

 

など、夜も寝ずに考えることにしている、というより寝付けないのである。

 

 

以後、すべての工事に応用し、考えている例を挙げれば、

霞ヶ関ビルの材料を人荷用エレベータで、

必要な資材を、数量、日程、置き場所に至るまで、

計画することである。

 

 

専任の作業員「揚重屋(ようじゅうや)」と呼んだ。

 

この作業員は、私の以前居た現場から団体で連れてきた

大工の手先グループである。

 

馴れてくれば地下から地上数階まで計画通りに進む、

成果は大きかった。

 

 

以後、彼らは、工務店から社名を替えて、㈱○○揚重(ようじゅう)、

として都内の超高層ビルを渡り歩けるように発展した。

 

 

以上、橋本先輩の資料から「国鉄労働会館工事事故」の引用です。

以下に、橋本先輩が帰国されてからの「業績を含めた略歴」を引用記載します。


学歴 昭和16年 島根県県立乙種(短期)工業学校建築科卒業


1941
年 鹿島組に就職 
       
給料最低の40円、大卒85

1941年 技術徴用され、支那(現中国)派遣軍司令部勤務、
       17歳 設計施工 兵舎ほか


1943
年 徴用解除、海軍高松飛行場工事 
              
特攻隊養成施設

1943年 徴用解除、海軍高松飛行場工事 
            
特攻隊養成施設

1943年 満州国境守備隊入隊、陣地構築       

対ソ連要塞陣地構築

1945年 シベリア抑留、重労働極限生活、3年間 


1948年 帰国、 建築会社復帰、東京財務局工事 

10004ヶ月、大突貫工事


1949年 全国市長会館工事 

      市長はこんなに居るのか


1950年 米軍三沢空軍基地家族住宅工事 

           敗戦国の苦しみを味わう


1951年 日仏学院工事 

           フランで契約、為替下落赤字


1952年 後楽園アイススケート場工事 

           大突貫工事、開場広告を恨む


1952年 興国人絹パルプ経堂寮工事 
      麦畑の青麦を刈る


1953年 慶応義塾大学非日吉寮工事

           米軍接収解除後の復元

1953年 国鉄労働会館工事

           地下工事での大事故、弱鉄骨

1954年 東京電力鶴見火力発電所工事

           当時日本最大の発電所

1955年 古河マグネシューム小山工場工事 

           石灰石からマグネシューム


1956年 八重洲ビル改修増築工事

           米軍接収解除後の復元


1957年 日本通運東京総括主管支店工事

           13ヶ月で大ビルを完成


1959年 日本水産晴海冷凍工場工事
          
鯨肉12,000トンの冷蔵庫短工期完成

1960年 東京横須賀火力発電所工事 

           当時日本最大の発電所

1963年 電電公社成増電話局工事 

           近隣対策に悩む

1964年 共同通信会館工事
      
27億円特命受注、大工事


今回は以上です。


帰国後、大変苦労されたのですね。

つづく。


偉大なる先輩その5(9回).pdf
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第4回 終戦からシベリア抑留

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

4回 終戦からシベリア抑留

 

 

引き続き、橋本先輩の資料からの直接引用です。

 

 

1945818日まで終戦を知らず

 

この日を境に、極寒の地シベリアにおいて長期間にわたって

劣悪な環境の下で、強制労働に従事し多大の苦難を

強いられたのである。

 

天皇の軍隊は国民を守らなかった

降伏の仕方さえ知らなかった

武器を置く

旧兵舎に集結

ソ連兵を始めて見る

終戦・帰国の道が、野宿8日の250キロ

 

日本に帰れる~日本に帰れる~

 

ウラジオストック経由が ~ 囚人列車は北に走る

 

そして、国際法を無視したソ連軍によって、

57万人※がシベリアへ

※この内、軍人や民間人を含め約6万人が死亡したと伝えられています。

※橋本先輩が抑留された地点は、コムソモリスク近郊です。

以下の地図上に丸に斜線がある部分です。


スターリンは日露戦争の復讐戦に大勝利した。
その陰で、十八万人の日本人が満州、シベリアの地に果てた。
「正義の戦争」など、未来永劫、ありえようもない。

 

抑留生活

終戦・帰国への道が
日本に帰れる?
抑留連行
囚人列車

 

軍事捕虜ラーゲリ(強制労働キャンプ)収容所

帝政時代からの流刑地

内務省所轄

極限生活とは

零下40度もの土地で、でも夏もある

食事、日課、居住条件

警護体制

内務省の軍人?

強制労働とノルマ(基準作業量)

各種作業をした日本兵

南京虫と虱(しらみ) 

便所風景 

貴重な水 

ラーゲルの入浴風景

 

ラーゲリでの思想教育
演芸から徐々に、
捕虜の中から思想教育指導者を志願
思想教育のセンター 反米宣伝
日本新聞の発行
様々なアジテーション

 

 

苦しかった往時をしのび、「戦争をさせないこと」を次世代に

伝えることが、私たち旧世代の責務としての認識を

強めている今日である。



今回は、以上です。

 

しかし、厳しい抑留生活の内容は、

本当に想像を絶するようなことですね。

 

つづき。

偉大なる先輩その4(9回).pdf
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第3回 ソ連の宣戦布告と終戦

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

3回 ソ連の宣戦布告と終戦

 

        

ソ連宣戦布告侵攻開始

 

以下は、橋本先輩の資料からの直接の引用です。

 

 

昭和20年(1945年)89日、日ソ中立条約破棄

 

宣戦布告声明から10分後の深夜午前一時、ソ連軍侵攻の

火蓋は切られた。

 

その時、国境守備隊はどう戦ったか?


関東軍は戦う前から‘撃破’を放棄し、司令部を後方の鮮・満国境に

移していた。

 

 

ソ連宣戦布告侵攻開始


午前1時侵攻開始、其の時国境守備隊はどう戦ったか?

百万同胞の悲劇が始まった

開拓団 在留邦人の運命は

関東軍司令部は後方 朝鮮・満州国境に移していた

 

 

815日天皇放送

 

降伏と停戦協定

 

「五族協和」の理念は音を立てて崩れ去った
こうして百万同胞の悲劇が始まった

昭和199月から、私は満州国とロシアと北朝鮮の三角地点の

国境守備隊に居た。

工兵隊として、橋を架け、船を運航し、陣地を構築する等の訓練もあったが、

特に教育されたのは、ロシアの戦車が侵攻した場合、体の入るだけの

タコ壷アナを掘り、1kgの火薬を抱いて、上に草をかけて潜み、ロシア戦車が来たら、飛び込んでキャタピラの下敷きになり、爆破する人間地雷となる訓練を受けた。

ロシアは昭和205月にドイツに勝ったのち、極東に軍事力を移動して、

満州国の日本軍に対応する体制を整えた。

 

我が工兵隊は、ロシアが北朝鮮を経由しての侵攻に備え、第二戦線陣地を

その方面の山中に要塞を昼夜作業で構築していた。

 

昭和2089日、ロシア軍は各方面から満州の首都新京に向かって一斉に

侵攻して来たが、我々の居場所は無視された状態となった。

 

 

「私の815日」

 

昭和20815日の降伏の重大放送も知らずにいた。

 

818日頃、一緒に居た朝鮮の兵が、近くの朝鮮部落から、日本は連合国に

無条件降伏したとの情報を得た。

隊長が日本国旗を焼いた。

この日を境に、極寒の地シベリアにおいて長期間にわたって劣悪な環境の下で、

強制労働に従事し多大の苦難を強いられたのである。

 

今回は、以上です。

しかし、内容は想像を絶するようなことですね。

 

つづき。


偉大なる先輩その3(9回).pdf
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第2回 徴用から満州国境警備へ

偉大なる先輩 ― 橋本清春氏の回想録

 

2回 徴用から満州国境警備へ

 

 

201548日に、天皇皇后両陛下がパラオを訪問されて

戦没者の慰霊をされました。

 

このように両陛下や皇太子様などの戦争に対する思いや

安倍首相の戦後70年談話関係の報道を通じて、戦時中のこと、

原爆投下のこと、大空襲のこと、玉砕のことの映像が流れました。

 

橋本先輩は、県立工業学校建築科卒、東京建設会社(鹿島建設)に

入社、すぐ技術徴用を受け支那派遣軍に勤務、実際に戦闘に

従事することはありませんでした。

 

終戦を迎えたのですが、帰国ではなくシベリアに連行されて

抑留生活を3年間送られました。その艱難辛苦の断片を、

キーワードで引用記述します。

 

 

  1. 17歳で陸軍の技術者徴用を受け支那大陸へ

     

    入社2ヶ月で白紙召集される

    その時代背景

    近衛師団(このえしだん)で身体検査

    3日後入隊即日品川発の汽車に乗る

    汽車の車中で行き先決定

    宇品(広島県)下車

    貨物船に乗る

    上海着、下船せず

    300キロ上流首都、南京着下船

    支那派遣軍総司令部 経理部建築課勤務

    一ヶ月間軍事訓練と軍の建築教育

    首都南京見たまま

    城門城壁の戦跡、爆撃、戦闘の跡

    支那人の初印象

    900キロ上流漢口市に転出

    中支派遣軍司令部 経理部建築課勤務

    待遇 判任(はんにん、下級官僚)官営外居住

    仕事 軍関係全般設計施工

    兵舎~病院~飛行場施設~製氷冷凍工場

    ~売店酒保(しゅほ)~馬舎(うまや)~屠殺(とさつ)工場

    ~慰安所まで~

    漢口見たまま

    外国租界

    揚子江

    武漢三鎮

    長沙作戦~

    宣昌作戦~

    信陽作戦~

     

     

  2. 満州とソ連国境で要塞工事

    満州国とは日本にとって、そしてソ連にとって、どのようなもので

    あったか?


    満州国とは、 歴史から見た満州国


国境守備隊入隊陸軍二等兵

当時日ソ関係

関東軍現況

対ソ作戦計画


ソ・満・朝・国境守備隊に入隊
二十歳で書いた遺書
国境に要塞を作る
ドイツ降伏後のソ連極東軍侵攻配備概要

 

対ソ連戦争に備えて

戦力対比


タコ壷戦法

第二戦線国境の山に坑道を掘る

鑿(のみ)や鎚(つち)の手掘り

世界遺産の石見銀山や佐渡の金山の坑道掘り

昼夜三交代

松丸太の大砲が敵地を睨(にら)む

 

 

以上は項目のみの引用でした。

 

 

 

以下は、他の資料からの部分引用です。

 

工兵隊として、橋を架け、船を運航し、陣地を構築する等の訓練もあったが、

特に教育されたのは、ロシアの戦車が侵攻した場合、体の入るだけの

タコ壷アナを掘り、1kgの火薬を抱いて、上に草をかけて潜み、

 

ロシア戦車が来たら、飛び込んでキャタピラの下敷きになり、

爆破する人間地雷となる訓練を受けた。

 

我が工兵隊は、ロシアが北朝鮮を経由しての侵攻に備え、

第二戦線陣地をその方面の山中に要塞を昼夜作業で構築していた。

 

昭和2089日、ロシア軍は各方面から満州の首都新京に向かって一斉に

侵攻して来たが、我々の居場所は無視された状態となった。

 

 

今回は、以上です。

 

しかし、内容は現代では考えられないようなことですね。

 

つづく。


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第1回 「橋本清春氏の回想録」執筆の動機

 

 

齢(よわい)91歳の橋本清春、大先輩、「生けるレジェンド」の物語を、連載で皆様にお伝えします。

 

 

 

 


大体、以下のような枠組みで書きます。

 

1回 「橋本清春氏の回想録」 執筆の動機

2回 徴用から満州国境警備へ

3回 ソ連宣戦布告と終戦

4回 終戦からシベリア抑留                            

5回 帰国してから国鉄労働会館工事まで

6回 霞ヶ関ビルとアークヒルズ建設から退職まで

7回 アークヒルズ建設、特集

8回 江工会関東支部の設立に関して

9回 戦争体験者の思い、次世代に伝えたいこと


 

「橋本清春氏の回想録」 執筆の動機

 

この回想録をまとめようと思い立ったのは、橋本先輩の偉大な

業績を鑑みて、お歳を召されているので貴重な情報が

散逸しない内に、様々な体験談や秘話などを交えながら

業績を記録し、

 

江工会、特に関東支部の次世代を担う若者のために

残しておくべきである、

 

と感じたからです。

 

 

これは昭和37年建築科卒の森岡薫氏と、

同じく昭和37年機械科卒の森山征夫(当ブログ筆者)が、

橋本先輩へのアプローチおよび資料収集、執筆を共同で

開始したことから始まりました。

 

橋本先輩の履歴など、一連の質問をあらかじめ行い、

記録保存を広範囲で行うことに主眼を置きました。

 

 

橋本清春先輩の略歴は以下の通りです。

 

なお、以下の略歴やその他の資料は、橋本先輩の直筆を

直接引用しました。また、フリガナなどは、編集者の加筆です。

 

 

履歴:

1924年(大正13年)島根県生まれ。

 

1941年(昭和16年)島根県立江津工芸学校

(現、島根県立江津工業高等学校)建築科卒業。

卒業後、鹿島組(現、鹿島建設株式会社)に入社、

すぐに技術徴用を受け支那(満州)で終戦を迎えた。

 

その終戦時からソ連に抑留され極限状態の苦労をなめたが、

3年後に内地(日本)に帰還した。

 

1948年(昭和23年)鹿島建設㈱に復職した。

 

数々の建築工事に従事(詳細は第5回から7回を参照)。

 

1986年(昭和61年)鹿島建設㈱を退職。

 

鹿島道路㈱に入社して取締役建築工事部長兼営業部長として

全支社を担当。

 

1996年(平成8年)鹿島道路㈱を退職。

 

退職後は趣味の版画、水墨画等のサークル活動で過ごし、

健康維持に努めて現在に至る。

 

以上が橋本先輩の略歴からの引用です。

 

 

つづく

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